都市科学研究会ブログ

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【論考】「計算科学的人文科学」のススメ(筆者:狐狸夢助)

 栄光は聞かれなくなっていた。――見つからない。灰色の狼たちは海で空振りし続けた。

 

 …第二次世界大戦末期、ドイツ海軍潜水艦――通称Uボート――への指令をのせた暗号「エニグマ」は、すでにイギリスの数学者アラン・チューリングらによって破られていたためである。

 兵器の意味は一瞬で変わってしまう。昨日は有効であった兵器が、次の日には敵方の工夫によって役立たずになってしまう。「本質的に」強い兵器などこの地上には存在しない。事物の意味は他の事物との関係により決まるからである。

 

 新しい技術や知見の登場による事物の関係再編は、認識の枠組みの再編を帰結することがある。その例の一つである近現代での生物の脱魔術化は、その結果として私たちがいま立つ認識の枠組みを形成した当の契機として重要である。

 生物の脱魔術化によって「人間存在もまた塵芥――他の自然物と何ら差異を有しない自然物――の集合にすぎない」という見解が広まり、その結果として人々の認識に変革が広まった。世界を思い描く一人称の「私」も実は身体という自然物の編成体の効果にすぎないという考えが広まるとともに、「事物が世界を生成する」と広く考えられるようになったのだ。そこでは「外界からの刺激を身体が受けるもしくは身体の中で反応が進むことで――あたかもパズルが自発的に組み上がるかのように、しかしあくまで水が高所から低所に流れ落ちるように何の神秘もなく――事物が自己組織的に運動してそれと平行に経験世界が生成される」と考えられるようになる。

 

 これまではこの「事物の自己組織的な運動」は探求困難なものであった。何故ならば、事物が多数集まって出来る複雑な系の振る舞いを予測するためには、莫大な計算が必要となるためである。しかし近年、複雑な系の振る舞いを計算によって予測することに対するモチベーションが産学ともにますます盛り上がってきている(※1)。それは、この10年で計算機の演算速度が1000倍になる(※2)など、情報処理技術が近年急激に発達してきているためだ。

 

 そこで私は本稿でまず疑問をひとつ提出したい。それは、このいわば「情報処理革命」に対する、いわゆる人文科学側の態度についての疑問である。確かに最近、情報処理技術がもたらした人間関係の急激な変化が人文科学側でもよく注目されてはいる。だがそれは情報処理技術の成果をサービスとして普通の人々がどう受けるかという、エンドユーザーでの出来事についての注目が主流であるように思われる(※3)。私は「情報処理技術がもたらす自然科学の最先端に密着した人文科学的探求は不可能なのか?」と問いたい。

 計算機の性能はこの10年で約1000倍になったというのに、人文科学はそれを指をくわえて眺めながら10年前のテクストを「現代思想だ」と呼んで読み続ける。それでいいのか。本当にそれしかないのか。もちろん現実的な問題として、人文科学系の研究者に他の学問をも独力で推し進める能力を要求するのは酷なのは間違いない。だが、だからといって相手にするのを投げ出すのはとてももったいないほどの革新的な技術や知見が情報処理技術の発達とともに現れてきていると私は思う。

 

 ではどのような方法で探求をすればいいのか。以下で私は方法案を具体例を示しつつ提案する。

 近年、生物の活動における「ゆらぎ」の重要性が指摘されている(※4)。その指摘によると、生物が様々な情報処理を柔軟かつ低エネルギーで処理できるのは、ランダムなブラウン運動を一方向にバイアスするという仕方で、生物の活動を担う分子が強い方向付けを作ることなく個々の確率論的エラーを許容しながらシステムを形成しているからではないかとされている。このようにまず、新たな原則の発見につながるような成果を見つけ出す。

 そしてこの成果を例えば「生の潜在的領域は確率論的エラーを許容しながら生成しているのではないか」というように人文科学的に評価する(※5)。この際に、暗喩による思考にはなるべく頼らず、原則的に概念の自然科学的用法を守ることが大事であると私は考える。なぜならば、概念の自然科学的用法に従わないことには二つのデメリットがあると思われるからである。第一に、それによって言葉を共有された定義から引き剥がされ、その後の議論が分かりにくくなってしまう可能性があるから。第二に、それによって自然から得られた経験からの脱離が起こり、経験の持つ自己を他者に対し開く効果が下がってしまう可能性が考えられるからである。

 最後にこの人文科学的評価を原則として、既存の人文科学の更新ができないかを試みる。

 …このような手続きを踏むことで、自然科学の知見から思想を安易に取り出すという歴史上たびたび繰り返されてきた愚行に陥らないよう気をつけつつ、人文科学を自然科学の成果に密着させることはできるはずだと私は考える。

 

 本稿で私はいわゆる人文科学を学んでいる方々に一つの提案をしたい。

 生命や環境に関する情報はますます盛んに集められるようになり、それらは近年急激に発達してきた情報処理技術によって莫大な計算量の解析にかけられるようになってきている。

 近代生物学が自然科学の原則によって我々自身を書き換えて脱魔術化したのと同じように、また新たな複雑な系に関する原則が情報処理技術から現れてまた我々自身を書き換えてゆく――そう期待して、情報処理技術の最先端に密着しながら人文科学をしてみるのも一手なのではないか?

 これが本稿での私の提案である。

 

 この30年間、哲学には新たな大潮流は現れていない。その原因を私は、哲学が自然科学などのもたらす外部の経験から脱離したからではないかと疑っている。もしこれが正しかったとするならばーー。

 ーー諸君らはこのまま海を彷徨い続けるつもりなのか?

 

※1:

その一例として、東京工業大学の青木教授らが行った気象シミュレーションの実行結果ムービーを "http://www.sim.gsic.titech.ac.jp/Japanese/Research/weather.html" で見ることができる。

※2:

1993年度から2011年度までのスーパーコンピュータのLINPACKベンチマーク速度の歴史 "http://intelligent-future.com/wp/wp-content/uploads/2011/06/TOP500-June-2011-Projected_Performance_Development.png" および京の速度 "http://i.top500.org/system/177232" から計算した。スーパーコンピュータというと普通のユーザーとは無縁に思われるかもしれないが、GPUメーカーであるNVIDIAのサイト "http://www.nvidia.co.jp/object/geforce-gtx-690-jp.html#pdpContent=2" に掲載されているGPUを自宅のデスクトップPCに装着すれば理論演算性能は "http://www.gpureview.com/GeForce-GTX-690-card-668.html" に書かれているとおり9.2TFLOPSとなり、10年前の世界第1位のスーパーコンピュータの実効性能に並ぶことを記しておく。

※3:

エンドユーザーのリアクションについての考察から一歩進んだ試みとしては、技術を活用した社会設計の提案の書であった東浩紀『一般意志2.0』が挙げられるであろう。このような、技術の活用可能性について論じるというのが、技術の発達を積極的にうけて思索する上での一つの方法であるとは思う。

※4:大阪大学の柳田教授らの成果 "http://www.jst.go.jp/kisoken/crest/report/heisei18/pdf/pdf18/18_2/008.pdf", "http://www.fbs.osaka-u.ac.jp/labs/yanagida/kotoba.pdf", "http://tkynt2.phys.s.u-tokyo.ac.jp/21coe/presentation/yanagida.pdf" を参照。

※5:もちろん、この評価はあまり新しい評価ではない。他の評価をぜひ考えてほしい。

 

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