都市科学研究会ブログ

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【論考】逆襲する帝国あるいは都市のもつ不可逆性について(筆者:ορείχαλκος)

人気アニメ「クレヨンしんちゃん」は、テレビアニメのシリーズ放送だけでなく映画も放映している。その映画が20周年を迎えたということで、2012年に歴代映画作品の中から人気投票が行われた。第一位は「クレヨンしんちゃん

嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」(2001年)であった。この作品はかなり評価が高いもので、多くの人にとって納得のいく結果だったのではないだろうか。

観た人も多いだろうが、簡単にあらすじを説明する。「しんのすけたちの住むまちに『20世紀博』というテーマパークができる。そこで大人たちは自分が子どもだった頃のアトラクションに没頭。そして、大人たち全員がテーマパークへ姿を消してしまうという事件に発展。大人たちは完全に子どもに戻ってしまったのだ。それを実行したのは『イエスタデイ・ワンスモア』という組織。そのリーダーであるケンは、21世紀の今に失望し、日本がまだ輝いていた20世紀に日本を戻そうとしていたのだった・・・・」

以上が簡単なあらすじである。

さて、この作品の副題「オトナ帝国の逆襲」は、スターウォーズの「帝国の逆襲」をもじってつけられたものである。しかし、あえてその事実をここでは無視しよう。ケンたちイエスタデイ・ワンスモアが築こうとしていた「オトナ帝国」は一体、何に「逆襲」しようとしていたのだろうか?

本編の中でケンは20世紀に対する失望を述べ、その恋人であるチャコも、今に生きる人々が「心がからっぽ」だから、いらない物ばかり作っている、と今の時代を否定的に捉えている。以上から、彼ら彼女らが「今」を憎んでいることがわかる。そう、彼ら彼女らは「今」に対して逆襲しようとしているのではないか。これが私の考えである。

「オトナ帝国」とは間違いなく、彼ら彼女らが夢を抱いていた時代のことである。それは醜悪な「今」となって否定された。それを今の時代に復活させること、それは間違いなく「逆襲」に他ならない。否定したそのものを否定されたものに成り変えようという試みは、悲壮感に満ちながらもあの日あの時あの瞬間、我々は確かに輝いていたのだという過去を再生させようというものだった。そして、「今」しか知らない「今」の象徴である子どもたちを制服を着た大人たち(明らかにナチスや秘密警察をイメージしている)が「狩り」に出るという流れも、まさにこの「逆襲」の構図を凝縮した描写だと言えるのではないだろうか。もっとも、ここで展開されるのは制服を着た子ども返りした大人たちが滑稽な手段でしんのすけ達を追うギャグである。

 

とは言え、発達した産業社会を根本から転換させようという試みは往々にして失敗する。市場が圧倒的な発達を遂げた場合に、社会が自己防衛を図ると述べたカール・ポラニーは有名な「悪魔のひき臼」の喩えを用いた。市場によってすり潰される人々。それに対する抵抗、自己防衛運動をとる社会。だが、この防衛運動は必ずしもうまくはいかない。一方でポラニーはこう述べている。

 

  ある潮流が最終的に勝利したからといって、なぜそれをその潮流の進行速度を緩やかにしようとした努力が無駄であったことの証拠と考えなければならないのか。またなぜそうした措置の狙いが、まさしくその措置が達成したこと、すなわち変化の進行速度を減速させる点にあったと判断しないのか。

(K.ポラニー著 野口建彦・栖原学[訳]『[新訳]大転換』2009年 東洋経済新報社 p64)

 

都市というものは構造上、一旦発達した場合にそれを元に戻すということが困難な空間である。一部の建造物をかつてあった形に戻すことはできるし、そういった取り組みも実際には行われている。しかし、それは都市全体で見るとあくまで一部の話であって、一個の都市全体が昔に戻るということは、あり得ないと考えていいだろう。なぜなら、一度効率的に構築された空間を効率とは異なる論理で再構築することが困難だからだ。これは都市空間に限ったことではない。たとえば、福田恒存はかつて保守的な立場から歴史的仮名遣いの復活を唱えたことがある。だが、歴史的仮名遣い復古運動は今では長谷川三千子小堀桂一郎ら一部の論客たちに受け継がれたものの、社会的主流にはなっていない。これは、一度利便性に基づいて変革されたものを元に戻すことの難しさを現した事例と言っていいだろう。

しかし、それに対する抵抗の試みは、市場と社会についてポラニーが言ったように決して無駄ではない。ケン達、イエスタデイ・ワンスモアは市場が呑み込まんとする動きに応じた社会の自己防衛運動だったと言えるのではないだろうか。帝国の逆襲は、社会の自己防衛運動だったのである。

ここで勘違いしないでいただきたいのは、社会の自己防衛運動とは決して反市場のかたちをとって出現する訳ではないということである。もしも、それが反市場主義をとるならば、イエスタデイ・ワンスモア内部で行われるあらゆる取引は全て金銭を伴わないものの筈である。もちろん、そんな描写は映画にはない。映画にあるのは、利便性を超えた「懐かしさ」による回帰である。そこにはイデオロギーは無く、ただ我々が失ってしまった何かの提示があるだけだ。

 

ケン達の試みは結局、失敗する。ケンは家族に邪魔されたと劇中で述べる。家族、それは今の社会で我々が失いつつあると言われているものであり、ケンが求めた懐かしいかつての社会の象徴の一つだった。計画が失敗し、死のうとするケンとチャコにしんのすけは「ズルいぞ」と叫ぶ。あの叫びを聞いて、ヒヤリとした人も多いのではないだろうか。昔の社会を懐かしみ、そしてその再生が失敗したら死のうとする。その一連の動きに対する「ズルいぞ」の叫び。子どもからの、叫び。それを受け取った以上、我々は生きていくしかなくなるのである。自らが懐かしんだ昔の象徴の一つに敗北したケン。しかし、彼の試みはたとえ失敗したとしても意義のあるものだったに違いないのである。ポラニーが言うように、ケンの試みは変革の速度を緩めようとしたものだったと捉えることもできる。その速度といかに向き合うか、それは映画を観た我々ひとりひとりに課せられた課題である。

 

さて、イエスタデイ・ワンスモアがつくろうとした帝国は結局、失敗した。しかし、社会の自己防衛運動は続くだろう。それは時に反市場主義、規制の再構築といった極端なかたちで表出することもある。それに対して我々がどう向き合うかは永遠の課題だ。そして、帝国は逆襲し続ける。過去において未来だった今を裏切り続ける「今」に抗して。

 

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