都市科学研究会ブログ

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【論考】規模から都市を論じることの可能性について(筆者:バーニング - @burningsan)

1.はじめに

 都市と一言で表しても、その実情はもちろんさまざまである。大阪や東京といった大都市と、筆者が高校時代の3年間を過ごした高松のような地方都市とは比較にならないほど様相が違う。

 そういったことを考えながらさて、本稿では次のことを論じたい。それは、適正規模論とsize and democracy(規模とデモクラシー)いう議論から都市をとらえるという試みについてである。これらについてはのちに詳しく述べる。

 筆者の問題関心は地域社会の実情であり、今は大学院で地域社会にとっての社会保障(医療、介護、福祉など)のありかたについて研究している。ここでいう地域社会はローカルなところ、あるいは地方や田舎と呼ばれるところを想定しているが、対比するようにして都市あるいは大都市についても関心を持つようになった。

 本稿で紹介する適正規模論は政治学や行政学の議論のひとつである。近年では平成の大合併のときに一部で盛んに議論され、話題にのぼった。平成の大合併の性質上、田舎や過疎地域から数万人程度の都市が主な議論の対象だった。だが適正規模論の原点ともされる議論をたどると、都市やだ大都市にも一定程度適用できるのではないか、というのが本稿のねらいである。

 都市とは何か。ふたつの議論を使って、ひも解いていきたい。

 

2.適正規模論と”Size and Democracy”

 「はじめに」で述べた適正規模論とは、簡単に言えば政治や行政といった営みにとって適切なサイズはどの程度かという議論である。平成の大合併ではとりわけ財政効率と行政サービスの維持という観点で議論された。平成の大合併と同時期に当時の小泉政権の政策として国から地方への財政移転が縮小したこと(いわゆる三位一体の改革の結果)や、合併によって行政サービスの質的低下が予測されたためだと言えるだろう。

 行政学の議論をもうひとつ挟むと、総合行政主体論と呼ばれる議論が適正規模論と隣り合っている。総合行政主体論では、地方自治体を自己完結的に様々な行政事務やサービスを執行できる機関(=総合行政主体)とみなす。

 現実として人口1万にも満たない小さい規模の自治体は一部の事務を近隣の市町村に委託したり、あるいは一部事務組合や広域連合といった形で周辺自治体と連携、協力することで日々の事務をこなしている。この限りにおいて適正規模とは何か、という点は特別問われることはない。しかし総合行政主体として自治体をとらえるとすると、同時に人口や面積などはどの程度の規模が最適なのかという議論も必要になってくる。

 

 話がやや先走りしたが、適正規模論の原点ともなっている議論を簡単に紹介しよう。それはアメリカ政治学の大家であるロバート・ダールが、エドワード・タフティと共著で1973年に出版した”Size and Democracy”である。(*1)

 表題の通り、規模あるいはサイズと、デモクラシーの関係についての実証的な著作である。ダールとタフティはこの著作の中で様々な観点から規模とデモクラシーの観点について論じているが、重要が概念をまずふたつ掲げる。それはシステム容力(system capacity)と市民有効性(citizen effectivenss)である。ダールとタフティによると、前者は政治体(polity)が市民の集合的な選好に完全に応える能力のこと、後者は市民が政治体の決定を完全に制御することであり、これらの概念を基準にして本書での分析に生かしている。

 少し例をあげてみよう。たとえば市民有効性を観察するために、政治参加や公職者との政治コミュニケーションの分析などをダールとタフティは本書でおこなっている。

 アメリカを含めたイギリス、西ドイツ、イタリア、メキシコの5カ国の調査では、国レベルよりは地方レベルにおいて市民は政治的有効性を実感するという。5カ国調査では国レベルよりも地方レベルのイシューに関心を持つ市民が多いというのも特徴的だ。

 しかし投票に関してはこの通りとは言えないケースが出てくる。理由はいくつかあるが、まず投票コストと規模はあまり関係がない。そして選挙制度を考慮にいれないと分析としては不十分になるためである。

 また、地域やイシューによっては地方レベルの関心が高まることもあるだろう。たとえばいまの日本において、原発の稼働の是非は地方自治体の判断に左右される。投票に関しては規模との関係性が一義的ではないのである。

 

3.現実への適用可能性

 適正規模論とsize and democracyの議論をここまで簡単に紹介してきた。では現実問題として、これらの議論がどのような示唆を与えてくれるのかを検討してみよう。つまり、都市の分析ツールとして、どういったことが可能なのかの検討をおこなう。

 適正規模論と市町村合併の議論では、合併の性質上小規模の自治体に適用されることが多かった。とりわけ、合併による規模の経済効果として、財政効率が理論的にも実証的にも論じられてきた。

 しかし、平成の大合併について包括的に検証した今井照は、最適規模論と財政効率やコストの問題を論じることに疑問を呈す。コストと最適規模論という見方は一面的であること、自治体の適正規模は上限もあるはずだが財政効率では効率という観点ゆえに下限に注目することを理由として挙げている。(*2)

 これらの指摘はもっともである。また、地理的要件を財政効率からみる最適規模論では反映しきれてないことへの批判も今井は述べている。

 

 ダールとタフティは規模にどのような指標がありうるかという説明として、人口や面積の他に人口密度と人口の分散を挙げている。また、絶対量ではなくて相対量として規模をはかろうとしている点に注目してみよう。平成の大合併の際の最適規模論には効率さの下限に注目するあまり、相対的な視点を失ったことにひとつの欠点があったととらえることができるだろう。

 もちろん政治体にとって財源やコストは、ダールとタフティのいうシステム容力を裏付けるものでもあるし、それなくしては何もできない。しかしながら、即合併という選択が正解にはならないのは、合併という規模の変化によって様々な影響が発生するからである。

 現実として人口1万にも満たない小さい規模の自治体は一部の事務を近隣の市町村に委託したり、あるいは一部事務組合や広域連合といった形で周辺自治体と連携、協力することで日々の事務をこなしている。この限りにおいて適正規模とは何か、という点は特別問われることはない。こういった視点の議論は、規模とデモクラシーの観点から見てもふさわしいとは言えないだろうか。

 

 話を都市に展開しよう。都市の自治体においては、小規模な自治体に比べるとシステム容力の問題は軽減される。だが他方で今度は市民有効性の観点から見ると、小規模な自治体と比べて重くのしかかるのではないだろうか。

 これはダールとタフティが観察したことを援用する形で現在にも適用できるのではないかと思う。たとえば大阪市の橋元市政、名古屋の河村市政、また東京の石原都政についてである。

 これらの大都市は、その大都市性ゆえに一人一人の市民の影響力は乏しい。 しかし上に挙げたのはいずれも多くの支持を得た首長である。一人一人の影響力の乏しい市民が、多くの支持を得た首長を制御することはどれほど可能だろうか。

 たとえば住民投票やリコール請求といった政治的決定の制御の方法は、大都市の市民にとってハードルが高いように思われる。だが現実に大阪市と東京で原発国民投票の住民投票が規定数を得たことや、名古屋では市議会の解散が成立した事実もまた、示唆に富んでいる。

 

4.おわりに

 適正規模論とsize and democracyの適用可能性を検討しつつ都市への実際の適用を軽く試みた。もっと多くの試みが可能だとは思うし、都市とはいってもかなり限定的な例示にとどまったが、今回はこのあたりで締めたい。

 適正規模論とsize and democracyは、いずれも多くの示唆を与えてくれるとともに、すべての理論がそうであるように限界も有している。このふたつの議論が時には共鳴し、時には相反することも特徴である。逆に、そうしたことを所与とすることで、様々な気づきを与えてくれる分析ツールだとも言えよう。

 得られた気づきをもとに、新たに議論を深めていく。その入り口として規模とデモクラシーについて、あるいは規模とその適正さについて思いをめぐらすことは、政治学や行政学にかかわらず可能ではないだろうか。

 

 

*1 Dahl, Robert A. and Edward R. Tufte, 1973. Size and Democracy Stanford: Stanford University Press (邦訳:内田秀夫『規模とデモクラシー』 1979年、慶應義塾大学出版会)

*2 今井照 『「平成大合併」の政治学』(2008年、公人社)、pp58-63