都市科学研究会ブログ

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【エッセイ】一人称の都市経験をめぐって(筆者:まつとも @matchamttm)

私たちは都市をどのように経験しているのか、という問いはあまりにも漠然としている。「都市」という言葉自体が広がりを持ちすぎているということが大きな要因だろう。そもそも都市は、経験の対象になるような確固とした輪郭を持つものとして考えられていただろうか。

 

Wikipediaでは、「都市」はこのように記述されている。

 

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都市についての国際的に統一された定義はない。都市は、機能的には居住地域、工業地域、商業地域からなる。中心部には官衙や事務所、商業施設が集中する地域、たとえば都心、中央業務地区(CBDcentral business district)があり、その周辺に都心住宅地(インナーシティ)や工業地域が、更に外縁に郊外が形成される。

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ここでは、都市のいくつかの様態や条件のようなものが提示されているが、それはあくまで暫定的なもので、統一された定義は存在しないと述べられている。

 

とはいえ、そもそもここで問うているのは客観的で厳密な定義ではない。本稿が提示したいのは、人々は一般的にどのように都市を捉えているのかという問いだ。

 

都市は、規模も形式も雰囲気も様々ではあるが、人が人のために作ったものであるという点ではすべて共通している。色々な立場の人々が、日々都市を訪れている。定住して暮らしている人もいれば、何らかの目的を果たすため、あるいは生業のために都市へと足を運ぶ人もいるだろう。人にとって都市は手段でもあり、環境=自然でもある。

 

つまり、都市を考えるということは、そこで生きている「人」を考えることにも繋がるのである。都市は、人との関わりによって規定されている。これは当然といえば当然のことであるが、しかしこのことによって問いの形は少しだけ変わることになる。

 

冒頭で提示したのは、人が都市をどのように経験しているのかという問いだった。都市が都市としての同一性を形成するのは、人の経験のなかにおいてである。つまり、問われているのは私たちの「都市経験」あるいは「都市表象」とでも呼ぶべきようなものの在り方なのだ。

 

 

人々がどのように都市を経験し、表象してきたかという点については、文学や文化史の中に事例を見出すことができる。例えば中世の記憶術の伝統のなかでは、都市はイメージと概念を結びつける場所(ロキ)として扱われている。あるいは、筆者の専門のフランス文学のなかでは、ゾラやボードレールらが近代都市としてのパリや、そこに集う群衆の姿を見事に描き出し、都市の生態系のようなものを浮かび上がらせている。

 

日本においても、都市に結びついた心性を解き明かすような成果が数々存在する。鈴木博之の『東京の「地霊(ゲニウス・ロキ)」』、田中純の『都市の詩学』、中沢新一『アースダイバー』などがその例であるが、これらに共通するのは、都市という場所が持つ「記憶」と、それを人々に想起させるための様々な「徴候」についての深い洞察である。

 

上記のような研究がいわゆる人文系のアプローチのものであるとすれば、近年盛り上がっているもう一方のアプローチは、認知科学的アプローチと呼べるだろう。人間の空間認識・物体認識の能力を解き明かすことで、都市経験の内実を明らかにしていこうという研究である。邦訳で、専門知識なしに読める一般書としては、コリン・エラード『イマココ 渡り鳥からグーグル・アースまで、空間認知の科学』などがある。

 

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これらの研究から考えられることは、都市という現象の構成要素には、2つの主要なパートがあるということである。一つは、都市を物理的に構成するオブジェクト。もう一つは、人間の認識能力や想起能力である。

 

改めて冒頭の問いへと戻りたい。私たちの日常的な経験では、「都市」はどのように表象されているか。その仕方には、いくつかの種類があるように思える。

 

たとえば、俯瞰的に都市の全貌を収めた航空写真や衛星写真のようなビジョン。あるいは、都市計画の図面・設計図。あるいは地図。これらは、客観的な視点からの都市像である。

 

そしてまた、私たちが毎日道路を歩きながら目にしている風景も、紛れもなく都市像の一つであろう。電車の窓やビルの窓から眺める風景でも構わない。これらは主観的な、一人称的なパースペクティブからの都市像である。

 

地名、マスコットキャラクター、歴史的な建造物や象徴的なオブジェといったようなものも、都市の表象といえるかもしれない。記憶としての都市、表象としての都市は、もちろん私たちの脳内にしか存在しないものだが、そのような表象が立ち現れうるのは、オブジェクトとしての都市が徴候として、契機として機能しているからである。

 

このように、都市は様々なパースペクティブから眺められ、経験され、表象される。「都市そのもの」の実体は私たちには捉えることができないか、あるいはそもそも存在していない。確かにあるのは、都市を物理的に構成するオブジェクト群と、そこから私たちの認識能力を通じて与えられる何らかの都市経験だけである。

 

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いかにして、私たちは都市のオブジェクトから都市経験を引き出すことができるのだろうか。以下ではその問いに接近するための概念装置を提示していきたい。

 

オブジェクトとしての都市は、だいたい以下の5種類の構成要素によって成り立っている。

 

パス:道路

ノード:結節点、人が集まるところ

リージョン:区域

バウンダリー:境界、川や線路など

ランドマーク:目印、象徴となるような建物、建築物、物体

 

これらの分類もまた、人が物理的都市を言語や記号によって解釈した理念的なものにすぎない。

とはいえ、そもそも都市は人が設計図に則って構築した人工環境なのだから、ある程度は人為的解釈にも耐えうるだろう。人工物でありながら、生態系や自然環境のような生成消滅を行うというところが都市の魅力なのである。

 

次に、上記のように記述される物理的現実を、私たちがいかに認識するかということについて考える。

 

認知科学の都市論には、「メンタルマップ」(認知地図)という概念がある。文字通り、人間が形成する空間像のようなものだが、通常の地図とは異なる特徴を持つ。さきほど、地図や設計図を客観的な視点からの都市像だと述べたが、そこでの「客観的」が意味することは、物理的な距離が正確に表現されているということである。

 

対してメンタルマップは、正確な距離をほとんど表象していない。

たとえば、自分の通う学校と、学校の最寄り駅との位置関係を思い浮かべるときの仕方を考えてみよう。おそらく、直接に正確な方角や距離を示すことは難しいだろう。まず先に思い浮かべるのは、たとえばそこへと辿り着くまでの(普段よく使用する)道順であるとか、近くにある目印となるような建物との位置関係であるとか、そういった間接的な手がかりであるはずだ。

 

さらに、学校から一番近い書店との位置関係を思い浮かべるとしたらどうだろう。その書店に通いなれているかどうかでだいぶ想像しやすさが変わってくると思われる。いずれにせよ、まず周囲の風景を想像し、大きい道路や道順からだいたいの方角を確認しつつ、俯瞰図を脳内でつくってみる、といったようなステップが必要になるだろう。

 

メンタルマップは形成された習慣に近い性質を持っている。目的地へと向かって移動するという主観的な経験の積み重ねが、メンタルマップの形成を支えているのである。そのさいに手がかり(徴候)となるのが、さきほど挙げた都市の5つのオブジェクトだというわけだ。

 

もちろん、メンタルマップは他の俯瞰的・客観的・多角的な視座とすりあわせを行ないながら訂正してゆくことができる。例えば筆者のような方向音痴にとっては、グーグルストリートビューで目的地の風景を予め確認してから外出したり、出先でスマートフォンのマップを用いたりすることでメンタルマップを補強・修正しなければ、初めて訪れる都市を迷わずに進むことは難しい。主観的な位置関係と客観的な位置関係を照らし合わせつつ、頭のなかに地図を作っていくのである。

 

もちろん、何度も何度も通いなれた街のメンタルマップは、それだけ強固なものとなる。オブジェクトのだいたいの位置関係を把握し、どこにでも辿り着くことができる。それが、その都市のマップの完成基準といえるだろう。

 

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都市をめぐる経験は、これまで述べてきたようなメンタルマップの仕組みに規定されている部分が大きいだろう。メンタルマップとはいわば、プラグマティックな都市イメージであり、イメージ形成の成否の基準は「どこへでも辿り着けるかどうか」、つまり自由に歩き回れるかどうかなのである。

 

距離や配置を客観的に描いた地図のみでは、私たちの意識は都市の像をうまく結ぶことが出来ない。初めて訪れる街では、とにかくパスを歩き回り、ノードから周囲を眺め、ランドマークを見つけて回ることが重要だ。そして、一人称のパースペクティブから都市をぐるぐるとめぐって徴候を拾い集めていき、手元の地図と照合していく。ばらばらで断片的な徴候が、頭の中で互いの位置関係を規定しあい、だんだんと像を結んでいくだろう。そのようにして出来上がっていくメンタルマップ(都市像)が複雑極まりない都市の姿をそのままに写し取っているように感じられたとき、確かに、都市はそこで「経験」されているのである。

 

歩くのが楽しい都市というのがある。都市の側の物理的な在り方が、そこを歩く人々にスムーズに都市像を結ばせるようなものになっているのだろう。もちろん、歩く我々の資質も問われている。都市が提示するオブジェクトという手がかりを目ざとく拾い集め、都市経験を豊かにしていくことができる者だけが、都市の遊歩者と呼ばれるにふさわしいはずだ。都市の経験とは、都市と人々の闘争の産物でもあるのである。

 

「都市に陶酔する遊歩者とは、そんな獣的官能を備えた巧みな発見者である。」(田中純『都市の詩学』、p98

 

 

参考文献

本文中で取り上げた話題に対応する書籍を一冊ずつ紹介する。

 

・中世の記憶術と都市の表象の関係

ライナルド・ペルジーニ『哲学的建築理想都市と記憶劇場』、伊藤博明・伊藤和行訳、ありな書房、1996年。

・都市と記憶に関する人文系アプローチ

田中純『都市の詩学場所の記憶と徴候』、東京大学出版会、2007年。

・都市と認知科学

コリン・エラード『イマココ 渡り鳥からグーグル・アースまで、空間認知の科学』、渡会圭子訳、早川書房2010年。