都市科学研究会ブログ

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【エッセイ】視覚の相対化に向けて―ロイ・マスタング試論―(著:神無創竜)

 まず、今季スタートした2つのアニメの話から始めることにしたい。一つ目は『げんしけん二代目』である。言うまでもなく本作はマンガ原作のアニメ『げんしけん』の続編にあたる。「げんしけん」は「現代視覚文化研究会」というオタサー(オタサークル)の略称であり、ここに所属するメンバーの日常を描いたものである。ここではこのストーリーではなく「現代視覚文化研究会」という名称に焦点を当てることにしよう。「現代視覚文化研究会」とは原作者である木尾士目の母校、筑波大学に実在するサークルなのだが、なぜ、この名称はオタク系文化を「視覚文化」に限定しているのだろうか。確かにアニメを見たり、マンガを読んだり、エロゲーをやったりする登場人物たちの行動は視覚に依存することになる。だからと言ってオタク系文化を視覚文化に限定するのには無理があるだろう。例えば、声優オタクなら聴覚が、握手会を重要視するAKBオタクなら触覚がそれぞれ重要になってくる。しかし、これらの些細な例外を捨象してオタク系文化=視覚文化とすることに何かしらの本質が隠れているような気がするのだ。

 

 もう一つの作品は『空の境界』である。本作は奈須きのこの小説が原作であり、以前劇場版7部作として公開されたものをテレビシリーズ用に再編集したものである。ヒロインである両儀式はモノの死を読み取ることができる特殊能力「直死の魔眼」を身につけており、人や物の「死の線」が見えるようになる。そして、それをなぞるようにナイフなどで切り裂けば簡単に殺したり、壊したりすることができる。ここでもストーリーではなくこの能力について考えてみよう。視覚を拡張することで新次元の力を手に入れることができるというモチーフは本作以外にも繰り返し扱われてきた。例えば、西尾維新の小説でアニメ化も果たした『刀語』では、主人公・鑢七花の姉である鑢七実が「見稽古」という能力を身につけている。彼女はこの能力により相手の技を二度見ただけで完全に模倣することが可能であり、どんな強敵と戦ってもその技をすぐに覚えてしまうため、物語の中盤まで最強と恐れられることになる。さて、「直視の魔眼」にしろ「見稽古」にしろそれらは目に関する特殊能力を身につけることで戦闘能力を飛躍的に向上させてきた。しかし、普段の生活を考えてみると静体視力や動体視力が人より優れていたとしても何か大きく役に立つということはないであろう。それにもかかわらず、これらの物語には目を強化することで新次元の力を手に入れることができるという幻想が満盈している。

 

 以上、最近のサブカル作品の中で視覚が大きな役割を担っていることを論じてきたが、これはアニメやマンガに限ったものではない。それらはボクたちが普段使っていることわざや故事成語の中に見出すことすらできるのだ。中でも「百聞は一見に如かず」という言葉には聴覚による情報よりも視覚による情報が多いことを、「目は口ほどに物を言う」という言葉には話し言葉による情報よりも目つきや目の動きによる情報の方が多いことをそれぞれ示唆している。つまり、古来、情報を入手するには「目」で(を)「見る」ことが何よりも重要と考えられてきたのだ。

 

 このように目・視覚の必要性を説く物語や言葉はいくらでもあるし、それらは生活の中に浸透している。これに対して、その常識に疑問符を投げかけた人気マンガ『鋼の錬金術師』を取り上げてみたい。本作にも目に関する特殊能力を身につけた登場人物がいる。それが「最強の眼」を持つキング・ブラッドレイである。彼はこの能力によって銃の弾丸すら見切ることができ、よって主人公たちは物語の終盤まで苦戦を強いられることになる。これに対峙するのが「焔の錬金術師」という二つ名をもつロイ・マスタングである。なんと彼はブラッドレイとの戦闘の果てに視力を失ってしまうのだ。この後、別の戦いでブラッドレイは死亡し彼が鎮座していた大総統の席が空くことになる。マスタングは大総統になるという昔からの野心を諦め、その席を自分の上司であるグラマンに譲る。そして、彼自身は「目で見えんなりに私にできる事を考えようと思う」と言い残す。マンガ版の結末はこのようなものであり、仄かな希望を明示するに過ぎなかった。ただ、アニメ版である『鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST』は少し異なるマスタングを描いている。確かにここでもマスタングは視力を失ってしまうのだが大総統になるという夢は諦めておらず、虎視眈々とその地位を狙おうとするのだ。「最強の眼」を持ったブラッドレイ亡き後、彼が務めていた大総統の地位を盲目のマスタングが目指そうとする、『鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST』が暗示していたのは目を強化した果てにそれを相対化しようという試みだったのではないだろうか。(ただし、マンガ・アニメ両作ともラストでは人間の命を原料に生成された「賢者の石」によってマスタングは視力を回復したことが示唆されており、その試みが完全に実行されたとは言い難い)

 

 ボクが今、目指そうとしているのもマスタングのような態度である。目の機能を無効化した時に何があるのか、そこにはどんな可能性が隠れているのか、それを考えてみたいと思っている。さて、本稿は何かを主張することに大きな力点を置いていない。もしかしたら読者はそのことに気づいていてイライラしているかもしれない。ただ、ボク自身もこの問題に取りかかりはじめたばかりであり、何かを結論づけるよりも何かに疑問をもつことで精一杯なのである。ここまでの文章はそんな自分の心境がそのまま反映されている。しかし、大きな問題を前に立ちすくむよりは踏み外してでも一歩前へ進むことの方が重要だろう。そこで、ボクが編集長を務める『普通な人』という同人誌で、この問題をテーマに据えた特集を組む予定である。今回、この拙い文章で興味を持っていただいた方は是非ともそちらも読んでいただきたい。