都市科学研究会ブログ

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【論考】灯台下暗しの政治学ーデモクラシー、無知、進化ー(筆者:佐倉小五郎)

■ところで君は何を知っているんだい?

 

「灯台下暗し」ということわざがある。みなさんご存知の通りであろうが、大体の意味は「目の前のことに気づかないこと」ということができるであろう。古人の言葉はしっかりと受け取って考えることは良いことである。我々は常日頃、ことわざをもとにして行動を決めたりしていることは往々にしてある。私たちは常に何らかの行動をしている。しかし、その行動をしている時に、ふと立ち止まってみよう。わからなかった問題がもしかしたら解決するかもしれない。自分の足下に転がっていた何気ないものによって。私たちは常に何もかもを知っているわけではないのである。

 

「井の中の蛙大海を知らず」ということわざもある。これもまた有名なことわざである。井戸の中で暮らしている蛙は、井戸の中の世界を知った気になっている。しかし、実は外にはもっと広い海がある。蛙は知っているような気がしていたが、実は何も知らなかったのである。

 

このように、我々の無知を質すことわざは色々存在している。そして、そのような故事成語に従うことは大体にして我々にとって良いものである。我々は自分たちの周り以上のことを知りうることは難しいのである。そして同時に、自分が知ったつもりでいるものとは、概して自分の主観的なイメージによって成り立っており、完全な知識ではないことが往々にしてあるのである。アメリカのジャーナリストにして政治学者であったウォルター・リップマンは、「それのぞれの人間は直接に得た確かな知識に基づいてではなくて、自分でつくりあげたイメージ、もしくは与えられたイメージに基づいて物事を行っていると想定しなければならない。」(※1)と述べている。リップマンはそのような状況の中で、民主主義について可能かを考えた。そして、そのような状況の中で、民主主義は不可能に思われるのである。大衆が中心となって行われる民主主義は、そのようなイメージといった不確かなものに頼りがちなのである。

 

そのような状況で民主主義は可能なのか。そのような声が多くの人の中で行われている。私はそのような問題について、同人誌「あじーる!」の中で、簡略化したものでありながら論じている。しかし、私が今回改めて論じるのは、民主主義と知識の問題である。

 

■政治と無知は表裏一体である

 

私は、民主主義に変わって、「灯台下クラシー」なるものを提唱したいと思う。もちろん、私は大真面目に書いている。そして、それは駄洒落以上の意味を持っていると考えている。言うまでもなく、「灯台下クラシー」はことわざである「灯台下暗し」をもじって作った概念である。そして、「デモクラシー」と「暗し」を掛けている。実に下らない。実に下らない駄洒落である。

 

しかし、私はこれの言葉が民主主義の本質を捉えていると考えている。というのは、民主主義の基本的な態度こそ、「灯台下クラシー」の言葉に象徴されているからである。つまり、我々のデモクラシーによる政治と、「灯台下暗し」はほとんど同じ問題を含んでいるのである。それは、「自分たちの決定を行う際に、自分たちのことは実は知りえない」ということである。

 

それは様々な意味において「知りえない」という問題に至る。その問題をまず羅列してみようと思う。

 

①理想的な社会を達成する一義的な方法を我々は知りえない

②自分自身が何を望んでいるか我々は知りえない

③完全な知識を我々は知りえない

 

まず重要なのは、「理想的な社会を達成する方法を我々は知りえない」という問題である。これは社会主義をはじめとした計画主義などにあたる批判であり、社会民主主義などに対する批判でもある。我々の社会は常に試行錯誤である。試行錯誤していく中でその度に有効なことをしていく以外に方法はないのである。なぜならば、特定の個人が社会全体を見渡すことは不可能であり、特定者が捉えられるほど社会は単純ではないからである。社会主義批判をしたF・A・ハイエクは、「われわれがもし、人間の行動の構造を計画的に構築したのだとすれば、あるいは意識的に計画したのだとしたら、ただ個人らにたいして、なぜある特定の構造と交わりをもったのかと問うだけでよかろう。ところが実際には、専門的な研究者たちは、数世代にわたる努力の後でさえその種の問題を説明することが著しく困難であることに気づくのであり、特定の出来事の原因はなんなのか、またその影響はどうなのかについて含意できないのである。経済学の興味深い課題は、自分たちは設計できると考えているものについて、実際には人間がほとんど何も知らないということを人びとに論証するのである。」(※2)と述べている。我々は社会設計という欺瞞を捨てなければならない。それこそ民主主義と人間の関係を知るために第一歩である。しかし、それだけでは十分ではない。次の論点に移ろう。

 

次に重要な問題は、「自分自身が何を望んでいるか我々は知りえない」という問題である。これは功利主義の「自分自身の欲求は自分が最も知っている」とというベンサムの規定を初めとした功利主義批判である。我々は自分にとって何が望ましいかについて知りえない。というのは、そのような欲望を数値化することはできないし、また何が優先されるべきか、一意的に判断できないからである。これは上の論点とも共通していることでもある。民主主義的決定をするときは、そのような功利主義的決定を規範とした決定は不可能であろう。我々はロールズがいうような、直観主義的な態度でしか、望ましいことを知りえないように思われる。そして、それこそロールズの言う「内省的均衡」、すなわち試行錯誤の態度である。

 

そして、最後の論点は「完全な知識を我々は知りえない」という問題である。これは心理が存在しないというような態度でもないし、また反実在論的態度ではない。我々は知識を絶対的なものとして捉えるべきでないということである。我々は知識を自分たちが説明するために使うための、仮説として使っているのである。科学哲学の権威であるポパーは「しかし、それでは、何が我々の知識の根源であるか。その答えは、わたくしの考えでは、こうである。我々の知識には、あらゆる種類の根源があるのであって、そのどれも権威をもたない、ということ。」(※3)と述べている。そして重要な点は、我々がそのような知識に誤りがある場合、それを修正していく態度である。知識はそのようにして、常に批判されて発展していくものなのである。

 

我々はそのような態度でもって知識を捉えることが重要であると考える。そのように考えることによって、絶えず社会の見通しを立てて行く努力をしていくことこそがデモクラシーなのである。

 

 

■灯台下クラシーの真意

我々はなにも知りえない。それは様々な点において知りえないのである。そして、そのような知りえないという事実から、「灯台下クラシー」の思想が重要なのである。最後に、私は「灯台下クラシー」がなぜ重要なのかを明らかにして、デモクラシーへのコメント、そして都市問題へのコメントに変えたい。

 

なぜこの問題を取り上げるのか。我々は都市という複雑な環境に生きているからだ。都市とは、様々なものが入り乱れている。その諸相は、まさに「ジャングル」である。ここで一番問題となるのは、都市とは我々自身がつくったものなのである。にもかかわらず、我々は都市について知ることは不可能である。都市に生活するということは、実は我々が無知の中に生きることと等しいものなのである。これは最近問題になっている「となりの顔もわからないような社会」だけの問題ではない。我々が何気なく使っている水道だったりビルだったりするものについても実は我々はどのようにしてそれが成り立っているのか、なんとなくは知っているかもしれないが、基本的には理解できないものなのである。人工物だけそれなのに、どうして人間以外のものが理解できようか。

 

そして、デモクラシー社会で問題となるのは、まさにこの種類の無知である。デモクラシーにおいて我々ひとりひとりが決定に関わる。しかし、そのような決定を下す時に、自分の知らないことも決定しなければいけないくなるのである。都市に生きる我々はそのような知らないことに対して決定を行うことなのである。それを理解することがデモクラシー社会を達成するために必要な条件なのである。

 

「灯台下クラシー」とは、我々の根底にある無知に基づいたものなのである。我々は、自分自身の社会をどのようにするかを知りえない。それは無知だからである。それを理解した社会ではどのような態度がふさわしいのか。それは我々の無知を自覚した上での政治である。我々はいかなるものに対しても無知である。そのような社会にあって重要なことは、いかに偶然性を理解するのか、そしていかにその状況を受け入れるかである。そして、そのような中でも諦めずに試行錯誤を繰り返すことである。我々の未来は常に「灯台下暗し」なのである。その中で、先行きが見えない中でも不断に変化をするのが人間である。

 

 

私は「灯台下暗し」の後に、「井の中の蛙大海を知らず」ということわざを取り上げている。これもまた無知を表すことわざである。我々は何もかもを自由に見渡せる鳥なのではなくて、井戸の中にいる蛙なのである。我々はそれを自覚した上でデモクラシー社会を生きなければならない。しかし、それは絶望的なことではない。我々は変えることができるのである。そう、「蛙」だけに。

 

※1 ウォルター・リップマン著、掛川トミ子訳『世論(上)』岩波書店岩波文庫)、1987年、42頁

※2 F・A・ハイエク著、渡辺幹雄訳『致命的な思い上がり(ハイエク全集Ⅱ期第1巻)』春秋社、2009年、112頁

※3 K・R・ポパー著、藤本隆志他訳『推測と反駁』法政大学出版会(叢書・ウニベルシタス)、1980年、42頁

 

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